先日リンカーン大統領誕生日にご紹介したリンカーン記念堂からはご覧の様にリフレクション・プールを間に挟んで一直線に並んでます。
エジプトのオベリスクを模したこの記念塔はワシントン・モニュメントとしてお馴染みですね〜。

今日はワシントン大統領のバースデー(1732年2月22日生)
(後ろにチョッと隠れてしまいましたが、国会議事堂、 見えるでしょうか?
ホワイトハウスはこの左手に、そして・・・右手には
合計16の博物館や美術館の集合体、 スミソニアンがあります。)

この写真は拝借してしまいました〜。)河の手前にあるバージニア州はワシントン大統領の生誕の地でありま〜〜す。
もともとはリトル・ハンティング・クリークという名だったんだそうですよ。
父の死後この農園を相続した (腹違いの) 兄ローレンスは海軍時代に敬慕したバーノン大将の名にあやかってマウント・バーノンと改名してしまったのでした・・・。


この写真も拝借したものです〜〜。)

去年から今年にかけてご紹介したロバート・リー南軍将軍のプランテーション、ストラットフォードの近くにあるんですよ、このポープス・クリーク。

・・という事は・・・?
そうなんですよ〜〜、実際に訪れたのは昨年の秋、10月でした〜〜。


ビジターセンターだけは開いてました。 ワシントン大統領の生家、急げば未だ開いてるかも、と云われましたがポトマック河から吹き付ける強風がますます気温を下げていく様で耳や鼻がちぎれそうな寒さ。


はい、その通り、ここは国立記念公園、ナショナルパークでございます〜。

一応行ってみて確かめて来ました。ワシントン大統領生家の土台だけ残っていてそこにはそれを示す標識がご覧の様に立ってました。

MKさんという方のサイトを探し当てました。
リンクをさせて戴いてしまいました。
「MKさんの旅行記」というサイトです。


これはジョージ・ワシントンが幼年期を過ごした家、フェリー・ファームです。 プランテーションでしたが今は屋敷は跡形もなくこの記念館のみが残されてました。
残念ながらParson Weemsという人によるでっち上げだったそうです。


上の写真はジョージ・ワシントンが母親、メリーの為に建ててあげたお家。フレドリクスバーグというワシントンDCとリッチモンド市のほぼ真ん中辺りにある街にあり 「メリー・ワシントンの家」 として知られています。
ジョージ・ワシントンは実母に対してとても冷淡だったみたいなんですよ。
何故なのか、私なりにいくつか思い当たるふしもあってホームページに書いてますので宜しければこちらを。

そして、最後の写真はワシントン大統領の妹が住んだ家、ケンモア・プランテーションです。メリー・ワシントンの家から歩いても行ける距離にあるんですよ。


ダラダラとした長文にお付き合い下さってお疲れ様でしたぁ〜〜!
若し却って読みづらい、とい う様な事でしたらどうぞ教えて下さいね。 *
メイモント span>巡りに戻ってみま〜〜す。

海外へ旅をするのが好きだったそうです が、ペリー総督率いる黒船が日本へ着いたのが1853年。
まさ か・・・日本へ旅をしてたとは考えられませんよねぇ〜。

ど なたかご存知の方、教えてくださいませんか〜〜?
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(子供達の服装にご注目を〜。 12月ですよ、
これ写したの〜!!)ということはこうして見知らぬ子供達も日本庭園では遊べなかっ た
ということは私達親子もケンタッキー・フライド・チキン持参のピク ニックは出来なかったた、ということ・・・ ?! )


春になってお花が咲いた頃にまた訪 れることにして日本庭園を後にして・・・
「私のバレンタインになって〜〜」
という意味なんでしょうけどm、皆さんそんなに深刻に受け取らないで下さいね・・・(笑)

しかも、トッピング無し、ですよ。
トッピングもグレーズも無しで・・・バックルと呼べるのかは知りませんが〜〜


そう云う私もチョコホリックではないので特に子供達が家を離れてからのバレンタインはすっかりチョコレートと無縁になりつつあります・・・

たまには・・・上の写真の様なカクテルの方がイイのに〜〜!




エミールのチョコレート・カクテル・・・!

秤で何グラムというのが苦手な私には計量カップで済むこちらのレシピはとても便利ですが、
正確さから云って皆さんには物足りないかも知れませんね。スミマセン〜〜。


(上は首府ワシントンDCにある有名なリンカーンの坐像ですね。)
(クリックしてみて下さい。ウィキペディアに繋がります。)バージニアとどんな関係が?」


そして左はリンカーンの子息、タッド君ですよ。


とウィキペディアに記載されていますが、落城した日の翌日、タッド君を伴ってリンカーン大統領はリッチモンド市内に姿を現せてます。
運河についてはまたいずれお喋りする事にして、橋を渡ってみましょう・・・



その時の様子がこんな風に表示されてました〜〜〜。
シルクハットをかぶったリンカーンの姿も見えますねぇ。
リッチモンドも焦土と化していきました。
You can cast off the name of slave and trample upon it;
it will come to you no more.”


ご説明申し上げました〜〜。
入ろうかどうか迷ってしまいました。
だって、この博物館、実は過去に一度見学した事があるんですもの。
内部の写真を撮ってなかったので、 「展示品の撮影、フラッシュ使用しなければ大丈夫?」 と訊いてみました。
「庭園の写真だけなら見学料なしでも撮って構わないわよ」、
と言ってくれたではありませんか〜〜。
途端に笑顔になってしまった私は早速裏庭に通じるドアを開けてみましたよ・・・


(シャッターは切り損ないましたが・・。)





。)エドガー・ポーからエドガー・アラン・ポーになったのはこの為なんですね。
養父、ジョン・アランはタバコを扱う豪商でポーが少年の頃仕事の関係でイギリスに家族を連れて行きました。ポーはこうして7歳から11歳まで英国生活を経験しています。
帰国後のポー、年に自身の博物館となるとも知らずこの建物、オールド・ストーン・ハウスの前を通って学校に通ったとか。
このオールド・ストーン・ハウス、1735年に建てられたリッチモンドに残る最古の建物なんだそうです。
そして17才になったポーは・・・
任期終了後バージニア州モンテチェロに引退したジェファーソン大統領が創立に努め総長となった大学として知られているバージニア大学に ( 開校されたばかりの1826年に) ポーは進学します。
当時のままポーの部屋が残されてますよ。こちらに写真が・・・。
法律を学ばせようとした養父と物書きを志していたポーとは対立する事も多く、
授業料以外には最小限しか仕送りを受け取れなかったポーは友人や知人に借金をして歩きその額は当時の金額で2500ドルにも達したとか・・・。
それでウエストポイントの陸軍士官学校に入るんですけどここでも校則を破って退学処分を受けたりしてます。
その間、詩集を発表したりしてますが評価されず生活は困窮するばかり。
1835年にリッチモンドの、「南部文芸通信」 という雑誌の編集長の口があり同市に戻ってきました。
ところが二年後には早くも免職。 経営者との対立が原因だったそうです。
その後、結婚、妻の死亡、別の女性との婚約などを経験しますが、その間ニューヨークやフィラデルフィアなどを転々としています。

1849年の事でした。
直接の死因は不明ですが、発作性飲酒狂、癲癇、ポルフィリン症、飲酒による脱水症状、アル中による幻覚や震え、渇酒症、低血糖、狂犬病、心臓病、糖尿病、そして殺人などが憶測されてるそうです。
ポーの一生は波乱万丈だった様です。
今回はリッチモンドで送った人生の一部、それも超特急でのご案内でした〜。
少しフォントのサイズを大きめにしてみました。目が疲れてしまうので〜〜。如何でしょうか



